乗客106人と運転士が死亡した尼崎JR脱線事故は、25日で発生から丸17年となった。JR西日本は事故車両の保存に向け、大阪府吹田市の社員研修センター内に今年、専用施設を着工する方針だ。事故の記憶の継承という課題もある中、遺族や負傷者はそれぞれに揺れる心情を抱えている。(小谷千穂、石沢菜々子)
新施設は2024年秋ごろの完成を見込む。計画では、損傷が激しく復元が困難な1~4両目は部品を棚に陳列する。原形が残る5~7両目や運転席の一部はそのまま保存する。また事故時の車両の状況を映像で伝える空間を設け、車両付近で遺族らが献花や焼香をできるようにする。一般見学は現段階で予定していないという。
「事故の衝撃を多くの人に伝えるため1~4両目を再現してほしい。事故現場の追悼施設『祈りの杜』で一般公開するべきだ」と話すのは、2両目で妻淑子さん=当時(51)=を亡くした兵庫県西宮市の山本武さん(73)。「現場なら祈りに来る人が見られる。車両を前に家族に事故の話もできる」
朝に見送ってくれた妻を、起こるはずのない事故で亡くした。調査や刑事裁判などに関わり、再発防止に力を注いできた。
11年に初めて事故車両を見たとき、車体は鉄の板や棒と化していた。遺品を探し、車体を運び出すためだったと理解はできたが「ここまでバラバラにするのか」と怒りが込み上げた。
昨年、JR西の運転士がスマートフォンを見ながら快速電車を運転していたという報道があった。「安全に対する意識を変えるには、パネルや模型だけでは足りない」と感じている。
◆◆
2両目で負傷した小椋聡さん(52)=兵庫県多可町=も、事故車両への思いは強い。「たまたま一緒に乗った人たちが同じ場所で事故に遭った、運命共同体のような箱」と捉える。
事故後、他の負傷者と共に犠牲者の乗車位置を調べて、負傷者の手記をまとめた本を出版した。「午前9時18分に一瞬で107人が亡くなったわけじゃない」。折り重なった人をかき分け、助けを求めながら、学生や主婦、会社員、お年寄りも少しずつ命を奪われた。
乗客が座っていた席、半分に折れ曲がって約100人が押し込められた車体、猛スピードで建物にぶつかった運転席…。たとえ一部でも、情景が浮かぶものを現場に置いて「見た人が共感できる展示にしてほしい」と訴える。
◆◆
一方、夫の浩志さん=当時(45)=を亡くした同県宝塚市の原口佳代さん(62)は「事故現場はお墓のようなもの。故人と話し、静かに祈りたい」と、社員研修センターで事故車両を保存するJR西の方針に理解を示す。毎月、月命日に事故現場で手を合わせている。
現場はマンションの一部を残して取り壊され、風景が変わった。事故車両を展示しても「事故の悲惨さはもう伝わらない」。当時の状況を目の当たりにした人でないと惨状は思い浮かべられないと考える。「JR西が組織の中でしっかりと事故の教訓を語り継いでいるかが大事。車両はそのために使ってほしい」と話す。
JR西によると、ほかの遺族からは「事故車両は見たくない」「一般に公開してほしくない」といった声もあり、一様でないという。
■日航機墜落事故は21年経て展示実現
乗客乗員520人が犠牲となった1985年の日航ジャンボ機墜落事故では、2006年に東京・羽田空港の近くに「安全啓発センター」が開設され、残存する機体や遺品が展示されている。予約制で一般の人も見学できる。
事故の遺族らでつくる「8・12連絡会」の事務局長、美谷島邦子さん(75)は「21年かかってやっと展示できた」と話す。同じ遺族でも「残すべき」「見たくない」と正反対の気持ちがあり、簡単ではなかった。
機体は「私たちにとって宝」と美谷島さん。多くの人が施設を訪れ、実物から事故の現場を感じ取る。次世代に伝えられているという実感があるという。
脱線事故の車両の保存には「当事者の気持ちに寄り添いながら、徐々に前に進むことが大事ではないか」と語った。
【尼崎JR脱線事故】2005年4月25日午前9時18分ごろ、尼崎市のJR宝塚線塚口-尼崎間で、宝塚発同志社前行き快速電車(7両編成)が脱線し、線路脇のマンションに激突、乗客106人と運転士が死亡、493人が重軽傷(神戸地検調べ)を負った。JR西日本の山崎正夫元社長が業務上過失致死傷罪で在宅起訴され、井手正敬(まさたか)元会長ら歴代3社長も同罪で強制起訴されたが、無罪判決が確定した。
からの記事と詳細 ( 事故車両を保存へ、年内に専用施設着工 「記憶の継承」揺れる遺族・負傷者の思い 尼崎JR脱線 - 神戸新聞NEXT )
https://ift.tt/7HmuteU
No comments:
Post a Comment